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『暇と退屈の倫理学』を読んだ。國分功一郎

なぜ人間は「退屈」に悩まされるのか?

愛知県豊橋市・豊川市・新城市の美容室【LE-PLA BEAU(ルプラ・ボウ)】の新城店“Beret(ベレ)”店長兼トップスタイリストの堀毛です。

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《『暇と退屈の倫理学』國分功一郎》

最近読んだ本の中でも、かなり面白かったです。

哲学って分野の本はあまり読まないんですが、それは難しそうってのが一番の理由でした。難しそうじゃないですか?  『暇と退屈の倫理学』ってタイトルでなかなか手に取らないですよね。

この本は、ある方からご紹介いただいて読んでみたんですが、全く哲学の知識など無くても、すんなり読めますよ。本当に丁寧に優しく書かれています。(そんなに丁寧に説明しなくても、ってぐらい丁寧。)

内容はタイトル通り、「暇」と「退屈」について。「暇」と「退屈」とどう向き合って生きていくべきなのかの議論がなされています。

「暇」の生まれた歴史から始まり、いつから人間は「退屈」を感じるようになったのか?  「暇」と「退屈」は必ずしもセットなのか?  「退屈」とはどんな種類があるのか?  「退屈」はどこからやってくるのか?   その「退屈」とどうやって向き合って生きていくのか?

本当に面白いので、誰にでもおすすめしたいです。おそらく、「退屈」に悩んだことのない人はいないでしょうから。

  

《自分に退屈してしまう?》

この『暇と退屈の倫理学』の文中には、ご紹介したい内容が本当にたくさん盛り込まれていましたが、その中から幾つか。

先ずは、以前にも載せましたが、哲学者のハイデッカーの議論。

ー 私たちはいま自分たちの役割を探している。いや、というよりも、私たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。

ー しかしそれはいったいどういうことだろう?  私たちは、自分たちで自分たちにわざわざ役割を与えなければならないほど軽い存在になってしまったのだろうか?  もし私たち自身が自分たちにとって重要な存在であるなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てねばならないなどということにはならないだろうから。

ー どうしてそんなことになってしまったのか?  なぜ私たちは自分たちの意味や可能性を見出せないのか?  これはまるで、あらゆる物が私たちに対して無関心になって、大きなアクビを吹きかけているかのようではないか。

ー 何にせよ、私たちは自分たちのために一つの役割を探している。「これこそが私のなすべきことだ」と言える何かを探している。

ー 言い換えれば、私たちは、自分たちを自分たちにとって再び興味あるものにしようとしている。自分たちが自分たちにもっと関心をもてるようになろうとしている。

ー だが、ここには何かおかしなことがありはしないか?  なぜそんなことをしなければならないのだろう?

ー もしかしたら、私たち自身がいま、自分たちにとって退屈になってしまっているのではないか?  だから何とかして自分たちを自分たちにとって興味ものにしようとしているのではないか?

ー しかし、人間が自分自身にとって退屈になってしまっているなどということがあり得るのだろうか?  なぜそんなことになってしまったのだろうか?

ー 結局、ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している。

《時間について》

ユクスキュルの議論。

時間とは何か?
ー 時間とは瞬間の連なりである。

この「瞬間」とは何か?
ー 人間にとっての瞬間とは、18分の1秒(約0.056秒)である。

人間は18分の1秒以内に起こることは感覚できない。したがって、人間にとって18分の1秒とは、それ以上分解できない最小の時間の器(瞬間)である。人間にとっては18分の1秒の間に起こる出来事は存在しない。

これは視覚だけでなく、人間のあらゆる感覚にとって時間の最小の器であるらしい。たとえば聴覚、1秒間に18回以上の空気振動(音)は聞き分けられず単一の音として聞こえる。人間の耳では1秒間に18回以上の振動は捉えられない。
触覚も同様。棒で皮膚をトントンとつつくと、トントンとつつかれていることが感じられる。しかし、1秒に18回以上皮膚をつつくと、ずっと棒を押し当てられているような一様な圧迫としてこれが感じられるらしい。

人間にとっては18分の1秒が感覚の限界である。つまり、18分の1秒という瞬間、「最小の時間の器」、それが連なって人間にとっての時間ができている。

人間にとっての時間とは何か?
ー それは18分の1秒の連なりである。

そして生物によって「瞬間」の長さは異なる。ある魚は30分の1秒、カタツムリは3分の1秒。それぞれこれより短い時間を認識することはできない。

人間から見るとカタツムリは大変のろまな生物である。しかし、カタツムリはと人間の時間は違う。するとカタツムリ自身は猛スピードで動いているつもりかもしれない。私たちが川魚を見るとその俊敏な動きに驚くように、カタツムリは散歩している人間を見て、「なんて素早い動きだ」と驚いているのかもしれない。

《退屈を生み出す習慣について》

人間は不十分な発達段階のままで産まれ出てくる。

すると人間にとって、生き延び、そして、成長していくこととは、“自分なりの安定した世界”を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、“自分なりの安定した世界”を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。

はじめて保育園や幼稚園、あるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでにその子が作り上げてきた“自分なりの安定した世界”を壊し、新しい世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難なことであるため、しばしば失敗も起こるほどだ。

ここでいう“自分なりの安定した世界”のなかで大きなウエイトを占めているのが、「習慣」と呼ばれるルールである。習慣とは困難な過程を経て創造され、獲得されるものだ。
しかも、苦労して獲得した習慣もいつまでもそこに安住はできず、たびたび更新されなければならない。学校が変わる、友人が変わる、上司が変わる、その度にまた苦労して習慣を更新しなければならないのである。人間は絶え間なく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。

習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換することを意味する。信号が赤なら止まり、青なら進むというように、行きている環境の全体を記号に変えていくのだ。
はじめて訪れた街ではすべてが新しく、何もかもが目に入ってくる。しかし、そこに住み続けるなら、毎日の見慣れた風景にいちいち反応したりしない。周囲の環境を一定のシグナルに変えていくとはそういうことである。

なぜこのような変換が必要なのか?  

それは、新しいものに出会うことは大変なエネルギーを必要とするからである。毎日、目に入ってくるすべてのものに反応しているととても疲れてしまう。習慣はその煩雑な手続きから人間を解放してくれる。

ここで見逃しがちな事実がある。「考えることが重要だ」とよく言うが、人間はものを考えないですむ生活を目指している、という事実だ。

人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲れてしまう。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、自分なりの安定した世界を獲得する。そして、当然行きつけのスーパーができてくるわけだ。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然ということだ。

逆に人がものを考えざるを得ないのは、苦労して作り上げてきた自分なりの安定した生活に変化が起きたときだけだ。つまり習慣の変更を迫られるとき、人は考えざるを得なくなる。

周囲の環境には実は思考のきっかけとなるもので溢れている。毎日出会う人も違うし、毎日見る景色も微妙に違うのだから。しかし、それらにいちいち過剰に反応していると疲れてしまう。それらから守るためな習慣が必要なのだ。守らなければ生きていけない。

しかし、そうして苦労して習慣を獲得し、安定した世界を手に入れてしまうと、人は退屈という恐怖と向き合うことになってしまうのだけれど。

《本書の結論》

上記の文章は、本文をかなり割愛して簡素化して載せています。本当はもっと詳しくわかりやすく説明がされています。

さらに、他にも素晴らしい内容の箇所はたくさんあります。

ぜひ、一通り読んでみていただけると良いかと思います。

で、『暇と退屈の倫理学』の結論として書かれていた部分。

何がおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。

自分の創り上げてきた世界ではあり得なかったそうした事実を前にして、人は一瞬立ち止まる。そして思考する。

しかし、それを思考し続けることはとても難しい。なぜなら、人は思考するのを避けたいからである。

けれど、〈動物になること(熱中すること)〉をよく知る人なら、何がおかしいと感じさせるものを受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そして、そのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。

退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった。

だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。

戦争、飢饉、貧困、災害ー私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。にもかかわらず、私たちはそれを思考しないようにして生きている。

退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。

しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。

どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかということを。

新城市の田舎美容室ベレの堀毛でした(プロフィールもぜひ)。

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堀毛 翔太

ルプラ・ガーデン   堀毛 翔太

ルプラ・ボウの教育ディレクターをやっています。
1988年生まれの男。名古屋出身。
本、映画、旅行、野球、植物が好きです。
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